にぎやかさと自由
にぎやかさの裏側には静がある。
にぎやかさを作り出すのは自分と他者との間に生まれる動的なものであることが多い。
例えば友人が家に遊びに来て、帰ったあとや、楽しい飲み会のあと、ふっと1人になった瞬間、静を感じたことは誰にでもあると思う。
動的な状況から静的な状況へ急に場面が変わった時に寂しさを感じる。
魔法が解けてしまった寂しさだ。
わたしはその寂しさがとても嫌いだ。無論、恐怖だ。
動的なものを望んでしまうし、動的な状況にいることに安心感を覚える。
なのに体が静的な状況をとても好んでいることも分かる。とても疲れるのだ。
にぎやかなところへ行きたい、でも体が動かない。心からそれを望んでいない。
この心の芯から感じている寂しさはどうしてくれよう。
だから私は自分が弱いと思ってしまう。
にぎやかさはつくり出せるはずだ。本や映画や漫画で心を揺さぶって感動することで。
心を揺さぶる体験をもっとしよう、一人でも動的に動くことはできる。
静と動が混じった静動的なものを摂取しよう。
知的ではなく、あくまで動的。自分の好奇心をくすぐるものを摂取するのだ。
私の今、感じている弱さはきっとにぎやかさの反動に対して泣いてしまう、弱ってしまう自分がいることだ。発想を転換すればにぎやかさの不自由さから開放されたのだ。自由を手に入れたということなのだ。自由を自由に使えていないだけで、自由の中にいるのだ。何も不便に思うことはない、何も寂しさを感じなくてもよい。
その事実に気付こう。この時間を乗り切るなんて思わず、楽しむのだ。味わうのだ。
にぎやかさの反動としての自由を手に入れよう。
書くことで成長できる、みたいだ
最後に投稿したのが2015年6月らしい。
それから私は日々の悶々を放り投げていたみたいだ。
こういうやり場のない考えとか、思ったことを貯めておく場所がなくなって、
どうにもこうにもやりきれず、Twitterの鍵垢をつくってそこに放り込む。
でも140字じゃ思考することなんてなく、思考のセレンディピティに出会うこともなかった。さみしい1年だったかもしれない。
2016年の大きな覚悟は「書くこと」をするということ。
わたしにとって書くってなんだっけ?わたしって書けるんだっけ?
と思ったことが発端で、「書いてみたい!」から始まってついにインターンを始めた。
やっぱり書くことは得意だったし、書くための苦しみにも耐えられると思っていた。
でも実際のところ普段から勝手に思考して消えていくことを書き留めたり、悶々を整理したりといったことはやらなくなっていたため、いざ、というときに全く書けない。
書くための苦しみと向き合うことができない。
困った。
書くことは好きなはずなのに、その言葉が出そうで出てこない感覚も実はすごく好きでたまらないと思っているのに、何故か書き出さない自分に困った。
そこにはいくつかの原因がある。
まずは自分から吐き出される言葉・文章に完璧を求めすぎていたこと。
インターン以外での書くことというのは、結局のところレポートくらいで、
レポートだってある程度の答えに沿って書いていったり、完結したキレイな文章を書かなければならない。
常に時間があって、そこまでにちゃんとして文章を書かないと自分なりに完璧に綺麗に収まるように書かないと!という思考全開だった。
それに、それなりに自分の文章が広く読まれるようになると、
やっぱり見られている意識があるし、あべあいり個人の文章に対しての価値を高めたいとか、変なことを考えてしまった節がある。
そんなこんなで書き手のプライドというものが出てきた。そいつが意外と邪魔者。
その邪魔者が完璧な文章を求めてくる。下手なことは書きたくないし、書けない。なんて、どこぞのセレブじみたことを考えていたと。
そして、次の問題は結局のところ自信がなかった、ということ。
結局のところ、そういう脆いプライドやら、完璧主義的思考の裏側には自分に対しての自信なさがあると思う。
人に読まれることを意識しすぎたせいで自分が気持ちが良いと思う文章を書けなくなって、それで自分のバランスが崩れたり、考えられなくなったりした。自分が気持ちが良い文章を書けば、自己満でも、バランスを取るための文章ならそれだけで良いという概念がプライドによって見失われていた。
完璧主義であろうということもプライドに対してのイコールであり、失敗を恐れる自信のなさの象徴であると思う。
得意なことでも、結局のところ自信がない。元々の自己肯定感の低さが顕著に現れてるし、虚像の自分を見すぎたせいで、さらに縮こまった感じになってしまった。
2016年は思っていた以上の成果と誤算を生みました。
そんな中「なんで編集長は書いてるんですか?」と質問した。
「生きづらさを解決していくために書いてる」と言われて、ははん、なるほど、めっちゃ分かる。「とにかく書かなきゃ」といわれた。
とにかく書かなきゃ、書いて思考して、いかなきゃ、もっと書くことと、自分と格闘していかなきゃ成長は見えないし何にせよ続かないわ、見えないわ。
喋ることより書くことだった、読むより書くことだった、寝るより書くことだったし、忘れるより書くことだった。忘れていた感覚、分からなかった感覚もある。
書くって地味だけど本当の意味で書ける人になるのは難しいことだと、奥深さに気付き始めた。わたしはきっと書くことで自分らしさを知ることができると思う。そういう特性を持った人だから、これからちゃんと書いて行こう。そう思いました。
2017年は強みを大きな強みにしていく。モットーは「自由」。
思考も行動も爆発させていきます。
今年もよろしくお願い致します!!
今、いま、イマ、午後7時36分、の、ワタシ。
過去を語ることにも飽きてきた。
でも過去を語らないと私の今がない。
その代わり、未来を語ることも多くなってきた。
こういう事をしていきたいのだと言えるようにもなってきた。
その言葉を持って色んな人のところへお話しに行っている。
これから何を見れるのか楽しみである。
これからどんな人に出会うのか楽しみである。
悩みは尽きないけれど自信を持つことはできてきた。
「自分の大きすぎる何かに溺れそうになっていた」時があった。
おそらく同じ悩み方はもうしないと思う。
私はちゃんと探し方を知っているし、
自分でやろうと思えばできることを知っている。
成長したんだな〜。
まだまだ足りないのは、疑うことだ。
「もっともっとステレオタイプを疑いなさい」
「前提を疑いなさい」とうちの教授に言われた。
もっと疑え、もっと疑えと。
そこに「時間がなかった」とかそういう言い訳、妥協は効かないらしい。
間に受けよう全力で。
ものごとの考え方を学びたい。
良いものをつくることへの執着心だけは誰にも負けたくない。
もっと貪欲に、もっと貪欲に。
きょうからも頑張ろう。
一步一步。