書くことで成長できる、みたいだ
最後に投稿したのが2015年6月らしい。
それから私は日々の悶々を放り投げていたみたいだ。
こういうやり場のない考えとか、思ったことを貯めておく場所がなくなって、
どうにもこうにもやりきれず、Twitterの鍵垢をつくってそこに放り込む。
でも140字じゃ思考することなんてなく、思考のセレンディピティに出会うこともなかった。さみしい1年だったかもしれない。
2016年の大きな覚悟は「書くこと」をするということ。
わたしにとって書くってなんだっけ?わたしって書けるんだっけ?
と思ったことが発端で、「書いてみたい!」から始まってついにインターンを始めた。
やっぱり書くことは得意だったし、書くための苦しみにも耐えられると思っていた。
でも実際のところ普段から勝手に思考して消えていくことを書き留めたり、悶々を整理したりといったことはやらなくなっていたため、いざ、というときに全く書けない。
書くための苦しみと向き合うことができない。
困った。
書くことは好きなはずなのに、その言葉が出そうで出てこない感覚も実はすごく好きでたまらないと思っているのに、何故か書き出さない自分に困った。
そこにはいくつかの原因がある。
まずは自分から吐き出される言葉・文章に完璧を求めすぎていたこと。
インターン以外での書くことというのは、結局のところレポートくらいで、
レポートだってある程度の答えに沿って書いていったり、完結したキレイな文章を書かなければならない。
常に時間があって、そこまでにちゃんとして文章を書かないと自分なりに完璧に綺麗に収まるように書かないと!という思考全開だった。
それに、それなりに自分の文章が広く読まれるようになると、
やっぱり見られている意識があるし、あべあいり個人の文章に対しての価値を高めたいとか、変なことを考えてしまった節がある。
そんなこんなで書き手のプライドというものが出てきた。そいつが意外と邪魔者。
その邪魔者が完璧な文章を求めてくる。下手なことは書きたくないし、書けない。なんて、どこぞのセレブじみたことを考えていたと。
そして、次の問題は結局のところ自信がなかった、ということ。
結局のところ、そういう脆いプライドやら、完璧主義的思考の裏側には自分に対しての自信なさがあると思う。
人に読まれることを意識しすぎたせいで自分が気持ちが良いと思う文章を書けなくなって、それで自分のバランスが崩れたり、考えられなくなったりした。自分が気持ちが良い文章を書けば、自己満でも、バランスを取るための文章ならそれだけで良いという概念がプライドによって見失われていた。
完璧主義であろうということもプライドに対してのイコールであり、失敗を恐れる自信のなさの象徴であると思う。
得意なことでも、結局のところ自信がない。元々の自己肯定感の低さが顕著に現れてるし、虚像の自分を見すぎたせいで、さらに縮こまった感じになってしまった。
2016年は思っていた以上の成果と誤算を生みました。
そんな中「なんで編集長は書いてるんですか?」と質問した。
「生きづらさを解決していくために書いてる」と言われて、ははん、なるほど、めっちゃ分かる。「とにかく書かなきゃ」といわれた。
とにかく書かなきゃ、書いて思考して、いかなきゃ、もっと書くことと、自分と格闘していかなきゃ成長は見えないし何にせよ続かないわ、見えないわ。
喋ることより書くことだった、読むより書くことだった、寝るより書くことだったし、忘れるより書くことだった。忘れていた感覚、分からなかった感覚もある。
書くって地味だけど本当の意味で書ける人になるのは難しいことだと、奥深さに気付き始めた。わたしはきっと書くことで自分らしさを知ることができると思う。そういう特性を持った人だから、これからちゃんと書いて行こう。そう思いました。
2017年は強みを大きな強みにしていく。モットーは「自由」。
思考も行動も爆発させていきます。
今年もよろしくお願い致します!!